ジュゼッペテラーニ




消費メディアがその名が示すように消費として拡散していくのはロシア構成主義が20世紀初頭コンクリートとガラスの建築をうたい一様には語れなくなったモダニズムの時代、ナチズムの脅威から世界中に広まっていった1920年代からである。この時代イタリアでは合理主義のための建築運動が起きたが、ファシズムのための建築とは、パトローギッシュな建築であったかどうかは分からないとされる。テラーニの建築を見ているとパトロンと建築家の関係が崩壊していくという芸術家にとって心痛む時代背景の中、伝統的な父権制の挫折がコンクリートとガラスの建築を合理主義との名は飛躍したもので建築が消費されていくにもかかわらず未来を見ていたように思え、イタリアという国がのちに戦争のために諸権利の主張を妨げられる諸個人の保護に関する法律、ファシズムによる住宅統制の開始から、個人に生じるはずの格差ならば、透明な家ではないと、こうした意味での合理主義を掲げたように思える。

何故ファシズムがギリシャのオーダーや新古典主義からかけ離れた様式を求めたのかといって、虚の様式とは闇の様式であり、パトローギッシュな触発の要因を排除して、全く新しい姿、形を伴わなければならなかったからである。のちに消費メディアの中で建築を考えなければならないとき、CIAMやガウディと同じようにそれを恐れてもいた。だからこそテラーニの建築は国際様式の一角としてインターナショナルスタイルという飛躍した一方で、悲劇的でもありえたのではなかろうか。

ノヴォコムン集合住宅は、1929年に竣工した。テラーニによるイタリアの近代建築の最初期のものである。(依頼主は不動産会社のNovocomnofDigiateComasco)ファサードは建設当時スキャンダルとなった。行政の建設局に当初の合理主義と表現主義の前衛的なものでは通らなかったことが原因で、この前衛的な表現の却下を恐れて、新古典主義の様式で申請した。当時現代の到来が示しているように人間は神から離れ、時に建築を自然を敵にした戦争としていた。地上5階、一部はオフィス、残りは住宅のこの建築は、マンションの住人からなる家賃収入を機に、依頼主が雲隠れしていく。ファシズムのための建築と誤読したのちの政府の方針として大企業のサポートを受けた「威張った建築」と化していく。そのスタイルや入居の勧誘という今日見る利ザヤが消費メディアが席巻していく。身寄りのない子供、国策ファシズムのもと、雇用から排除されたかのような大人、「格差」の前提である家族の多様化の到来は、当時すでに用意されていた。イタリア合理主義の象徴と呼ばれたこの建築は社会的流通としては高嶺の花だった。

テラーニの建築に特徴的なソリッド性は、解析幾何学的にいう地と図の視点をもち、ちょうどル・コルビュジェが自身の建築でインド高等裁判所で見せる強い身体性を感じる柱で現代建築に身体性を復活させたけれども、直立不動のそれとは異なりテラーニの建築には動きは身体構造にたとえられ、タイトな身体性を示す。タイトとはボデイラインのはっきり見える、目の覚めるような肉体美のことである。個人的な快楽とは無縁なところで展開される合理主義の営みは、きわめて厳密な意味において倫理的なものだ。タイトというきわめて厳密な意味において身体的なものだ。かくしてテラーニの建築を、精神性に異常があると思えればその基体としての身体性の不安定さに捉えること。また逆に身体的異常があると思えるならばそれは結果論的に精神性に異常があるとの、存在や目に見える形で自由主義的デカダンスという病に対する治療を意味することとなる。軍から兵器、その一般化への可能性を見極めてから、商業マーケットへ流通させるか否かの一連の国家としての流れは、鉄筋コンクリートの建築が普及していく時代には、都市計画家を必要としていた。ジュゼッペテラーニはイタリアのモダニストの建築家。合理主義建築を代表する建築家であった。1920年代にドイツなどで興った建築のモダニズム、インターナショナルスタイルにいち早く反応しイタリアにおいて普及させようとした。同時に、新しいファシズム体制のための建築を多数設計している。

都市計画においてイタリア合理主義はどのような役割を果たしてであろうか。新古典主義やネオ・バロックなどの復古主義を激しく非難し、1926年[グルッポ7]のメンバーのうちの進歩主義的なメンバーと宣言文を発し、復古主義とその論争のリーダーとなった。

ダンテウム(1938)は、ベニート・ムッソリーニのファシスト政府によって企画されたアンビルトの記念碑である。残っているのは、テラーニのスケッチ、建築モデルの一部、プロジェクトレポートの断片だけであり、イタリアの有名な詩人ダンテを祝い、帝国ローマの栄光に基づいて築く強力なファシズム国家を称賛することだった。1938年の戦争を機に、プロジェクトは立ち消えになる。空間構成としては、注意深く配置された空間の石板は、次第に幅を一定の長さずつ狭めるという、廟(びょう)そのものの壁面に適応されている操作を、いわばインデックスのように示している。すなわち、廟の背面の幅が5,25メートルであるのに対し、側面入り口が開いた壁の幅は4,75メートル。正面上部の御影石の板が一辺4,25メートル。そして、残されたもう一つの測壁面の幅が3,75メートルと、建物の周りを回転するにつれて、壁の幅は50センチずつ減少する。ダンテの「新曲」の構成と平行する一連の記念碑的な空間とは、「演劇」に対する「リアル」、「シークエンス」に対する「場所」、「生」に対する「死」として、物語やストーリー性とは異なる身体性や視覚性を与えようとしたのだとみることはできないだろうか。ル・コルビュジェならば、ギリシャ神話にならって光や影とこのダンテウムを我田引水的に引用するところ、この建築の地と図という基体に関わるすべてのこと―身体、格差、父権性の崩壊の中で「新曲」を建築物翻訳したのはもとい、その思想的な価値として、「それはちょうど一般の民衆が稲妻をその閃光から切り離し、後者を稲妻と呼ばれる主体の活動であり作用であると考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの表れから切り離し、あたかも強さを表すもあらわさないも自由自在といった超然たる基体が強者の背後にあるかの如く思いなす。がしかし、そのような基体は存在しない。活動、作用、生成の背後にはいかなる<存在>もない。<活動者>とは、単に想像によって活動に付加されたものにすぎない。-活動がすべてである。」(フリードリッヒ・ニーチェ)といわれ、因果関係の転倒、翻訳の翻訳とでしか言い表せないような、いわゆる建築要素の明示的なボキャブラリーに収斂されず、身体までを存在の当てにしないインパクトとも呼べる空間表現に到達している。このような思想は、身体的、あまりに身体的なものであり、Brace-ブレイス(身体構造をその動作上につっかえ棒を想定して)と呼べる。「天国」、「森」、「生と死」などのダンテウムの建築では、道徳的主体における<余剰享楽>などなく、真摯に建築と向き合うその設計手法とは、ファシズムを駆け抜ける前提として、テラーニとは悔しさにただ耐えて、それでも上を見る。美しい人である。

ファシズムに関しては、それ自身の自己目的としてイデオロギーの形式を直接にとらえる点を、スラヴォイ・シジェク(1949~)は指摘している。ファシズムが行うアピールは、服従のための服従、犠牲のための犠牲を要求する、きわめて空虚で形式的なものに過ぎない。そこで重要なのは、手段としての犠牲の価値ではなく、犠牲という形式そのものであり、この<犠牲の精神>が自由主義的デカダンスという病に対する治療を意味することになる。弱点とも見えかねないこうした形式性こそがファシズム・イデオロギーの呪縛力に他ならないとシジェクは指摘する。ファシズムにおける<犠牲の精神>は、純粋に倫理的であるがゆえに猥雑な享楽を余剰として密かに産出しつずける。倒錯した欲望の現れ以外のものではない。

ニューヨークが20世紀都市計画の最も成功した例だといわれる。ハワードやガルニエ、理想都市の中ギーズ(フランス)のファランステ-ルが実在し経営が営まれた。自然の前でどうするすべもなかった都市計画は、住居/労働/精神と身体の修養/学校/役所/病院など合理的な手法で19世紀から拡大し始めた。ファシズムとはいわば都市計画を無視した自己倒錯性にジレンマを抱えていた。まずもって主任建築家のテラーニが、ムッソリーニに要求された美しい建築を、格差という社会問題に普及させる方向をとって展開していった。テラーにに言わせれば、ファシズムとは時代遅れの権力主義であり、国家を気取って金銭をむさぼる卑怯な集団であり、責任を取るのは死ぬ時だと嘘ぶく連中にしか見ていなかった。テラーニの作品の中でもヴィラ・ヴィアンカ(住宅)は、ソリッドなヴォイにもう一つのヴォイドが貫入するというスタイルで地中海風の意匠がなされた。サンテリア幼稚園やE42スタイル(会議場)などのほか、作品自体は146点であり、現存する実作は22点である。著者の住宅が「E○○スタイル」というのは、テラーニの真似なのである。スーパースターではテラーニはない。「子供はときどき自分の自己愛を、親という鏡に映してみせて確認しようとする。覚えたての芸当を何回も繰り返して見せるとか、その時にそれを受け止めて賞賛したりほめてあげたりする対象が必要である。大抵は親である。こうして、親が理想化されたイメージをキープしてくれ、自分を映したときに「実物以上によく映る鏡」となった場合、子供は安心して自分の自己愛によりかかることができる。」ある心理学者のこの一説は、共同体と他者、言いかえれば「自分とは何か」の体制下での建築の表現に関わっている。今では「つなぐ」といわれるようになったが、年代的にはリミナリティー(過渡性)、トワイライトゾーン(薄明るい領域)、コミットメント(ゆだねる)などなかなか理解しずらくて、20世紀科学的客観性が宗教の問題を解決した後、「つなぐ」までやってきた。血を流し傷つき闘ってこその建築家像はまだテラーニの時代にはあった。今から100年前から展開されていたモダニズムに時代も変われば建築も変わる。感謝の念で建築は、災害、不況の時代の中、今ではそのありがたさを誰もが抱いている。もちろん、建築史の分野においては、消費メディアの席巻で、テラーニの活動を守ろうという運動もある。カサ・デラ・ファッショという1936年に竣工したファシスト党の地方支部(1957から警察の州本部となる)は、そこで試みられた屋上のガラス空間の可視性は、ファシズムの権威を示す。身体を支えているような壁/柱のつっかえ棒は、宗教的な臭みのないこの建築を、ソリッドなヴォリュームとして立ち現れている。哲学的な議論もとい、明治末期から続いた資本主義の危機と労働者・農民の成長、知識人の要求を背後に国家を統制し戦争を起こすなどと、やがて訪れる大恐慌をテコに、戦争の時代に国民をひきずっていくファシズムの出発がそうであったような、独裁者が国を統治するとは科学の進歩によってなくなった。言論の自由は確かにあるしまたライフル銃にあこがれる少年やテロはまだあるかもしれず、実は神とは、人々に平等にふりそそぐ太陽なのだとしたら、不幸とはきっと、僕たちが自分の手で作り出したものに過ぎないはずだ。

                                箕浦聖人(建築家)

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