コロナの時代の私たちと建築
「コロナの時代によるビルディングタイプが生む価値観」
コロナの時代の今,発熱や味覚/臭覚の異常に苦しんでおられる患者の皆様にはお見舞い申し上げますとともに、病院をはじめ高齢者福祉施設等、社会的弱者を取り巻く世の社会資源の活動に賛同いたします。またこの度のような論文提出の機会を与えて下さいました青木淳氏はじめ雑誌「新建築」社の皆様に一建築家として感謝いたします。いつの時代も権力のうごめく都市において、対する都市機能の維持管理がそれ以上に熱意をもってなされたことはコロナの時代で示されました。代表はもちろん医療従事者の方々ですが、今回の新型コロナウイルス感染症は毎年の冬のインフルエンザなどと異なりワクチンの開発に時間を要しました。使命感に追われ、ワクチンが大量生産される一方で、このウイルスは何か、社会全体よりも個々人の心がけのような「基礎疾患がある方が手厚い、お金のことではないその真摯さは本当にすごくてコロナウイルス感染症の終息には、複雑な手段が必要」といった解決策が求められているように言われます。建築では例えば組織事務所、大手ハウスメーカーの便益性で多くの建て主を取り込む住宅事情に押され、オリジナリティーという尊厳さに関わる個人設計事務所は、建築とはデザインよりもインフラかサービスかに関わるべきだとの昨今、アプリオリな「原因、原理から始める演繹的な推論」の提出という、形あってのプロセスという個人作家への問いかけとして考えたい。
社会生活では経営者が利益を欲しがるあまりビルの持ち主のように収益性で雲隠れして迂回していくという格差社会のこの構図格差の開きが生まれる中、雇い止めという新規の雇用を生まない状況を、家族にばれたくないから秘密にしておく状態で、生活保護を受給する人たちは多い。コロナの時代の対策である3密を避ける生活様式は、マスクがあるから息苦しい、会話がしにくい一方で、今でこそ飲食店の時短要請で済んでいるものの、2020年4月には経済活動全般が自粛を要請されて、世界大恐慌とリーマンショックが一度に訪れたかのようだといわれた大打撃を被った。ワクチン開発が進み、次第次第に忘れ去られていく新型コロナウイルス感染症の迎える結末は、建築家の山梨知彦氏によれば、「コロナウイルスを恐れなくなり、その社会に慣れること」だとポストコロナについて述べられた。
コロナ時代の私たちと建築について著者の思うことは、マンション建築を代表とする偶像崇拝に、利益の追求/経済活動の批判をしようにもイベントとしてのアトリエ事務所の建築が、また縮小されてしまっていることについてである。建築の意匠はコロナの時代では制限されている。大手ハウスメーカーのお施主さんの担当者と外部の雑誌編集者の入れ違い際に「噓」が発生する。お施主さんへの便益性の前に個人事務所が埋もれる中、組織の気難しさが建築に与える影響は明らかである。偶像であるマンションの購入者は減り、住宅も売れなくなってくる。商業指向であるショップインテリアも着工は減っていく。怪しさは、例えば「トランスジェンダー」といって、企業が前面に押し出しているキャラクター性の前で、男として就職するか女として就職するかの性同一性障害を持つ人が、かつては社会のかたすみでかくれた存在だったひとたちが、企業が相手し始めたことによる。また「モダニズム邸宅の極み」これはあるハウスメーカーの売り言葉だけれどモダニズムは病気の疑いのある概念であって健全性より危険な方向へ傾いた感じでお洒落ではあっても悪しき表現だと気が付くまでに間に合うように住宅を売ろうとしている。人間が立っていられるのは骨格と筋肉によるが、背筋と腹筋を掛け合わせて姿勢を保つように、人間の行動とは「Brace-つっかえ棒」の上に成り立っている。ある建築が立っている。倒れないでいることは柱や筋交いによるものであるように、鉄筋コンクリート造においてはせんだん力によるひび割れは斜め方向へ、曲げに対しては縦横にひび割れするように、決して建物の垂直性や水平性都はそれ自体では成り立っていない。荒涼とした敷地ならば文化的なたたずまいの建築という構築物も、建て詰めていけば、ファサードしか見えない街並みになじむものとさせなくてはならないし、狭小の土地で住宅を考えなければいけない条件下であれば、建築の文化性を守らねばならないと思われているが、これが、コロナの時代の影響によって、建物の専門性を持つ人も、そうでない建物に関わらない人も、同じ建物という建築物に住んでいる。雇い止めによる格差の広がる社会の中で、価値観の変化による家族の多様化にコロナ時代の私たちは様々な建築スタイルを目にし関わることとなる。邪魔者は消すといった戦国時代の日本史のような話は苦手だが、そういうことも述べねばならないほどに、数寄屋建築が猥雑に発展していった室町時代、ペストが流行したルネサンスのはじめ人々は乗り越えてきた。コロナの時代だけでなく平和の崩壊はおきている。コロナの時代の建築はまた、歴史観の提出としてあるのであって、例えばテレワークであればそれを可能にさせた科学技術という前提があるし、密集を避け個人のソーシャルディスタンスといっては個人の隔離や会話を抑えた接客業などは本来ナンセンスなはずである。生きていてこそ花がある。どんな罪も生きてつぐなうべきであるように喜びとともに悲しみがあるとかを超えて、コロナ禍の中でも人生を肯定しなければならない。ガラスのスカイスクレイパーを定立させたのはアメリカに1920年代に渡ったミース(・ファン・デア・ローエ 1886~1969)の功績であるが、ニーチェやキルケゴールが科学的客観性で精神/物質に示唆的であった一方、20世紀はフッサールの現象学が都市の在り方に大きな影響を与えた。
ちなみに住居の問題で述べると、アフォーダビリティー 問題というのがあって(渡邊詞男 1968~ METAVORTEX Architects)、アフォーダビリティーとは、住居の入手のしやすさのこと。いつの時代も権力は搾取する。都市は貧困層を維持管理する。建築は社会の資本の集積の産物である。指標としてのアフォーダビリティーとは、所得に占める家賃や光熱費など住居費の割合が使われ(所得の30%以上を占めると問題があるとされる)、たとえばアメリカでは1980年代になってアフォーダビリティーの低下という新たな問題が発生した。コロナの時代もまたそうで、権力者がコロナウイルスの被害を恐れておとなしいかわり、社会は生産性が落ちている。芸術とビルディングタイプーフィリップ・ジョンソンの成し遂げたニューヨーク近代美術館での建築の情報発信者とは父権制の崩壊が家族の多様化をビルディングタイプによりもたらした。住居の入手のしやすさを、雇用で満たせるように合理化したのがビルディングタイプなのであるが、ビルに詰め込まれていた人々が、コロナの時代変化し始める。多くは感染予防のための個別化、個人を個人だけにさせること、会議をテレワークでこなし、不要不急の外出を避け、時差出勤やすべての連絡をパソコンのメールでこなす、三密を避ける。新しい勤務様式にコロナの時代は影響を与えた。この生活は、いつかは終わる。今のところそう思われている。習慣は、恒久的に作用するのか?、それとも消費されていくのか?。ビルディングタイプが普及した20世紀、そのデザインはつるピカと呼ばれ一様に定義された。「便益的なものだ」と。それでも意匠に工夫のなされたイベントとしてのビルも存在した。第三次産業は現在、農業や工業などの分野を押しのけ就業人口の約半数を占める。ビルという箱に詰め込まれていた人々は、新しく安全な場所を求めて箱から出ていくこととなった。農業も工業も生産性においてはコロナウイルスの被害を被っている。
テナントビル計画案 (設計 著者 写真1~6)
重要である設計のプロセスは相変わらずビルの設計であるというのに広場での交流に関わるものとなった。広場への渇望をミースのサーキュレーション的な手法に対し非対称的な正面の構成での解決としている。アトリエ事務所で言うところのカタチがあってのプロセスではないかということである。結果より過程というのは感情移入の問題が未解決のままである。土地所有者の権力が住宅よりビルでは膨大なものでビルのテナント面積自体は建ぺい率、容積率ともに最大限にとっている。1階から3階まですべてのフロアをスキップフロアとしている。ダブルスキンの道路側壁面を非常用の開口部を隠すほどに左右いっぱいオーバーするほど覆っており、また上方向にも建物最高点ギリギリまでガラススキンをとっている。内側の壁面で床面積を算定するものとし、屋上テラスには雨水の再利用での散水機能を持たせてある。構造はSRCでコア部分が壁式である。人生がそうであるように、ドラマの人とプロセスの人がいるわけで、中立的な建物機能の一方で、イデオロギー的な捉え方を表現したこのビルの現象性を表す屋上マリオン、トラス架構体と図学的、抽象的な三角屋根による全きの全体性は図像的探究であり、本質的にピラネージ風といえるものである。四十度の傾斜した壁面を持つプランとのパラドクシカルな関係性からは建築そのものを単純な機能から再生できなくても建設地「海田町」というローカルな地での提案に、その意図するところがはっきり読み取れ、そのものの完成にはほとんど無関心で独善に陥るところがない。所得税の累進課税と重い相続税が、迂回しながらビルの持ち主である債権者が雲隠れしていく。一方でビルは感情移入の産物である。商業主義が日本の伝統をおかしくしたとして、それを元に戻そうにも、制度がドヤ化して修正が利かないから、日本様式という固有性に帰るのではなくて、商業主義を(自分なりに)占うことが重要だと思うのである。土地所有権の絶対性と価値を生まない利益の追求という都市計画の矛盾に向き合うことは、デザインを広場に集う要件に変えると思う。
日本人の気質である自然の理解は、何億もするビルの建設ラッシュに傾いて、80年代のガラパゴス化した建築業界の消費メディアのすさまじさをビルが建ってしまうほどの科学技術での生産に走らせた。ビルが感覚に訴えてくるとして、それはディテイルのことだ。透過型太陽光発電パネルをガラススキンに用いたり科学至上主義も行き過ぎてはいよう。賃貸事務所も借りるとか借りないとかいう問題が起きる。時代は身体性から感覚的なものへと、「間」のことをコロナの時代は示唆してはいないだろうか?かつて安土桃山時代に茶室として誕生した数寄屋で言えば、人と人が正対して茶でもてなす。もてなしを受けるという、右手と左手の手の甲を合わせたときに感じる手とかぶせた手は反転可能である。これは歴史的に/社会的に/精神的に身体があることを示唆し、具体的な人間存在としての心身合一的なものである。身体をそうではなく、心身二元論の心あるいは精神と峻別され引き離された物質的な身体としてしまうならば、自己の主体と客体の分裂を実践的に克服することにはならず、いつまでたっても身体の主体化には行きつかない。コロナの時代の影響は建築のインテリア業界にも及ぶが、ウイルスを避けるのにはインテリアもまた意匠よりも消毒や密にならない空間構成つまり仕切りを設けることになる。設けた棚の抽象性は、身体の働きが表現的世界の自己限定とされ、また身体を通して自己実現され理性化される。コロナの時代の末端である人間の身体。具体的なパトスの有り様として、コロナの時代の新しさとは、自然が人間に仕掛けた戦争という見方である。自然災害もとい、地球規模での環境問題は私たちにこのコンペの概要にあるように深刻さを露呈させた。現象としての「今日の感染者は何人」といっているのも、具体的に「われわれにとって身体はあまりにも近いために、かえってその働くありのままの姿をとらえがたい。しかし生きているままの状態でとらえるとき、身体はふつう思っているよりはるかに、われわれが精神と呼んでいるものに近いことがわかるはずだ。」(中村雄二郎1925~2017 哲学者)。ーあるときは肩甲骨を精神のつっかえ棒として、ある時は現象と身体を思わすつっかえ棒として、ある時はパトスの在り様としてのつっかえ棒として、Braceなのである。紹介したビル一階店舗のインテリア。ハンガー仕掛けの衣類から平置きの衣類、アクセサリーなどで普段身体を彩らせるけれども、道具や歴史的現実の中に生き、それを具体化するのであれば、コロナの時代の身体は感染症の数を目で追いながら一喜一憂しているかのごとく、対応はできてもいつ自分が当事者にならないとも限らないのである以上は、コロナ時代の建築とは身体性を表現するものとして身構え、その身の程を結局容量の一番多い矩形以外に建築の効率を上げる手段はないとさせる、外面的なものとしての自覚が求められている。(身体とコロナ)
このテナントビルの一階に設けたショップインテリアは、円形の筒状の柱がベンチを伴って存在しているように、住宅のマスターピースとして本店舗は存在している。抽象的な三角屋根による全きの全体性は図像的探究であり、本質的にピラネージ風といえるものである。コロナの時代においては、建築の意匠はイベントだけでなく偶像的にも作用する。ちょうど、ピラネージのことが出たところで、十八世紀イタリアの画家、建築家(1720~1778)であった彼は、崩壊していくバロック的世界観と、古代遺跡の発掘などに触発されて台頭しつつあった新古典主義との結節点をなす版画家である。グロテスクな印象は科学的客観性が発達しつつあったこの時代払しょくされ、非常に印象的な絵である。20世紀70年代に日の目を見たレイナー・バンハム(1922~1983)の解いた、建築の環境問題は、設備、構造、環境、客観的な存在としてのビルディングタイプの建築を不動のものとした。今どきの時代背景である少子高齢化のほかに、父権制の崩壊からなる家族の多様化は、「十七世紀、十八世紀のヨーロッパを支配した数々の絶対王政が、バロックの最大のクライアントであったように、フランス革命により絶対王政を打倒したが、それに代わって最終的に政権の座についたものは、ナポレオンという絶対王権以上に根拠不在な絶対権力だった。」(隈研吾1954~ 新建築入門 ちくま新書)アアルㇳの逸話 施主に対して居留守を使ったとか寝坊したとして施主の前にガウンをわざわざ着て現れたりしたのは、アアルㇳはCIAMが嫌いで、バウハウスを知るものならば仲間であるだろうとかいうことに抗してのことだった。こういう話はもともと何もない殺風景な土地に商店を建て、賃貸ビルであれば物の管理が分散して賃貸マンションが安価になることの反面教師である。残念ながら封建社会の構造という強いものが勝つこと、芸術の虚と実。競争を恐れて自己保身にビル建築の事情は走った。戦争を繰り返しては、支配者層が資本を独占するように、格差の問題とは別に80年代からいわれるようになったものでなく、いつの時代にもあったのである。江戸時代に下級の武士が百姓になり下がったとして、厳しい年貢の取り立てに翻弄されていた。「ピラネージの絵は「ブシャール版」において数少ない描線と画面中央の大きな余白によって鑑賞者の想像力を喚起することを意図していたが、その反面で未完成という印象を免れず、好評を博すことはできなかったようである。」(来歴 Purchased by NMWA 1988)。ピラネージの絵は版画から建築に傾倒していったことから「図学的探究」といわれた。コロナの時代の芸術それは、機能と空間の一対一というありがちな機能主義を、あくまで学術的に述べられることがいま求められているのである。ハンガー仕掛けの衣類から平置きの衣類、アクセサリーの展示など幅広い演出に対応するショップインテリアは、イベントとしての建築が自粛の目にあっているコロナの事情の昨今、偶像化することで、キース・へリング(1958~アメリカの画家)ではないけれど、絵画の売れなかった70年代、比較的売りに出しやすいものが、ニューペインテイングが流行した時代のように薄明るい領域としてコロナの時代のアートは表現できる。ル・コルビュジェ(1887~1965)の活動がなしとげたことにパトロネージを官僚の方に入れこなす作業を逆行させたことがある。ソーシャルディスタンスがそうであるようにビルは機能と空間が一対一であることのほうが空き部屋ならベッドが置けるとか、子供室を病室に使うとか、場所と空間をすり合わせることができる。(芸術とコロナ)
コロナの時代の私たちと建築それは私たちが、ごく当たり前に過ごしている建物との距離を見直す機会であるということである。アフォーダビリテイーの低下で住居が入手しにくくなるわけで、土地価格が下落したとかコロナの時代に差異の産出は可能か?コロナ禍を理由にテレワークや在宅勤務で人がすべてビルから離れるとは思えない。ただ生活底辺のボトムアップはしないものだから、目に見えないもの、本当のことを見ようとしているようでは日常の些細なことを見逃す。
ランドスケープデザインやメディアの充実の中で、コロナ禍の中社会の隅に追いやられたかのようなアトリエ建築事務所を救うこととは難しいー機能主義のことである。機能主義とは聞こえはいいけどやる気のほうはなくないか?経済でいう、日本の現状の政治の不信を気にしてか、日本はほかの諸外国から実験状態だというコメントをツイッターで目にした。建築のコピーライトとは、何のへんてつもなく建っている建築の中でも建築雑誌に載ってしまうもののことである。特徴のあることは理想的にも技術的にも思想的にも全くないのだけれども。
何がこうした建築を雑誌に掲載させているのかといって、それらがドヤ建築ではないからである。明らかに他に対する優越感を持っており、他人と差をつけようにも例えば高級なもの、珍しいものを持つことである。高級なものをもっても優越感を持たない人もいるので、比較的に言って、「誇大自己」というものがある。それは自己愛のことで、個人が内面に持つ心情であり、何でも自分の意のままになるというおもいこみである。共同体と他者、言いかえれば「自分とは何か」の体制下での建築の表現に関わっている。今では「つなぐ」といわれるようになったが、年代的にはリミナリティー(過渡性)、トワイライトゾーン(薄明るい領域)、コミットメント(ゆだねる)などなかなか理解しずらくて、20世紀科学的客観性が宗教の問題を解決した後、「つなぐ」までやってきた。
メタボリズムとは、開発の時代においてのみなされた。サステナブルとして、中途半端なまま途中切断されながら建築が社会と接する中、大都市の足りてない人物と地方の優秀な人がそれぞれ定義される途中で格差が生じていることがみそである。一人一人の心がけそれこそは、格差や自然災害などの不幸を、それが権力のほうがいつも迂回していることを、思潮と根底からくつがえす。都市は維持管理の観点においては生き物である。価値を生まない利益の追求という土地価格の高騰にコロナの時代はまた一石を投じた。
より大きな商人が店舗を買っていくことで土地価格が上昇し、現代家族の多様化という現象も商業に大きく影響する。住宅を事務所として使用し始める建て主さん。キャンピングカーを所有している人が住所は実家だとして車で生活する人。広場でフリーマーケットという収入を得ながら公共性に寄与する人。建築を一瞥するのでなく社会的/公共的に掘り下げることは、「お金があるから何かやる時代から、コロナの時代はお金はなくとも考えて何かやる時代へ。」(安藤忠雄さん 青リンゴの話)へとコミットメントしていくだろう。 何を使って生活や経済活動をやりくりしているか、よりも、「所有物をどう使いたいか」が、コロナの時代の私たちと建築なのではないだろうか。(知性とコロナ)
箕浦聖人
美修_lan(ミシュラン)建築アトリエ
Instagram:minouramasato misyulan.base.shop
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